移り気なブログ

テーマなどない自由気ままな雑記帳です。

下今市から矢板まで。

奥の細道をたどって、深川から日光までは自転車できました。

ここからは徒歩に切り替えます。

輪行が結構大変なことと、今後峠や山道が多くなってくることが予想されるので、自転車では大変で、観光どころか、ただコースを走るだけになっちゃいそうだからです。

さて、前日仲間と飲みすぎて予定より1時間遅れで自宅を出発。

この時点で昨日までに調べておいた電車の乗り継ぎダイヤは反故になりました。

朝、自宅のPCで新たなルート検索をしてメモして出発しました。

yahooの路線検索はちょっと使いにくいです。

というのは、新幹線利用が初期設定されていてそれをはずすことが出来ないのです。

時間はあるけどお金がない私のようなものにとって常に新幹線がからんでくる検索結果は利用しづらいのです。

で、livedoorの路線検索を使いました。

こちらは新幹線利用は選択できるようになっています。

東武日光線の下今市駅を9:15に出発しました。

電車は混んでいましたが、ほとんどの人は日光へ行くらしく、下今市で下車したのは10人ほどでした。

ほぼ461号線に沿って矢板まで行きます。

途中、歩きにくいところもあります。

特に鬼怒川を渡って船生に行く途中の道はダンプにあおられて道端で立ち止まってダンプをやり過ごさなければならないこともありました。

しかし、道はつまらなくてもあたりは、つつじ なのはな しょかつさい やえざくら やまざくら 

しばざくら つばき けやきのめぶき たんぽぽ。

黄紫桃赤…。

船生を過ぎて宇都宮大学演習林あたりはそれらの花とともにケヤキなどの芽吹きも加わってそれはそれは美しかったです。

芭蕉は元禄2年4月2日(1689年5月20日)に船生の先の玉生で泊まっています。

芭蕉とほぼ同じ時期に歩いていることになります。

ということは、芭蕉もこの色とりどりの景色を愛でて曾良と二人、歩いたことになります。

玉生ではタクシー会社の人が声をかけてくださり、芭蕉の頃の道や芭蕉の一夜の宿の跡の場所を教えてくださいました。

無精ひげのお兄さん、ありがとうございました。

奥の細道関連のHPには玉生の一夜の宿は尾形医院のところだと載っていましたが、その尾形医院は移転してしまい、関東バスの車庫の塀に移転先の地図が掲げてありました。

玉生を過ぎ矢板に入りました。

ここまで、パトロールの警察官がやたら目に付いていました。

栃木県で何か事件があったっけ?などと思いながら歩いていましたが、なにかリュックを背負って一人で歩いている私が見張られている錯覚に陥りました。

一度意識したら、パトカー、ミニパト、バイクのおまわりさんとすれ違うたびに、職務質問されるのでは、とドキドキしました。

」というバス停があり、なんと読むんだろうと停留所の文字を見て首をひねっていたらパトカーが徐行して、助手席のウインドを空けて私を観察しながら通り過ぎました。(「さいかち」と読みます)

バイクに乗ったおまわりさんとすれ違いざまにもじろっとにらまれました。

なんかやだなー、と思って歩いていると、後ろから「どこまでいくの?」と声をかけられました。振り向くと今しがたすれ違ったバイクのおまわりさんです。

「矢板までです」と答えつつ(職質か)と身構えると(←そんなひつようないのに)、「奥の細道ですか?」と聞いてくるではありませんか!

それから話が弾み、倉掛峠への旧道を教えていただいたり、石の道標の場所を教えていただいたり、親切にしていただきました。

バイクに乗った親切なおまわりさん、ありがとうございました。

無事、倉掛峠を越えて日光への道しるべを確認できました。

矢板駅には15:25に着きました。

途中、宇都宮で下車して餃子とビールで一人乾杯しました。

餃子はすべて純国産の素材を使っていると謳ってありました。